脱・欧米コンプレックスを果たした日本人。

一昔前、いや、ほんの数年前まで。

日本人という民族は、それがまるでアイデンティティかのように「欧米コンプレックス」という信仰を持ち合わせていた。それも、揺るぎない、全日本国民的コンプレックスだ。

 

「日本人は」

「海外では」

 

といった言葉が、私たちにとって超メジャーな枕言葉になっていた。勿論、その枕言葉には、日本人や日本文化を卑下する言葉が続いた。

 

しかしここ数年はどうだろう。政府が「クール ジャパン」を打ち出せば、マスコミが「日本って素晴らしい」と声高らかに叫び、日本国民はその期待に応えるかの様に「日本て凄いよ、みんな知ってた?」とSNSで拡散する。日々、「海外メディアが日本を賞賛」といった類のニュースを目にすると、まるで世界中で日本ブームが起きているかの様な錯覚すら起きる。いったい、この違和感は何なのか。

 

日本の文化がここ数年で急速に発展したのか。それとも、世界の日本評価が急速に「クール」になったのか。いや、それは違うだろう。歴史ある日本文化も、世界の日本に対する固定観念も、たった数年では変わらない。変わったのは日本人だ。

 

数年前まで、日本という国は特別だった。正確にいえば、日本人にとって、日本という国は特別だった。アジアでは絶対的な存在で、中国や韓国など眼中になかった。世界でもアメリカに次ぐスーパー大国という自負があった。その日本人の自信を支えたのは、幼い頃から叩きこまれた「メイド・イン・ジャパン」信仰であり、世界2位の経済大国という事実だった。その自信や心の余裕は、知らず知らず日本人の遠慮精神を刺激し、「欧米コンプレックス」というリップサービスとして表面化していたのだろう。

 

しかし、今の日本人にはその「欧米コンプレックス」を披露する余裕がない。眼中になかったはずの中国にGDPを抜かれ、眼中になかったはずの韓国製品が世界に評価される。人間というのは、自分の地位に危機感を覚えると、自らを過大評価したり、相手の足を引っ張るものだ。そう、今まさに日本人が中国・韓国を相手にしている、それの様に。

 

言い方を変えると、いま日本人は自分のアイデンティティを失うほどの危機的状況にある。日本人が歩むべき次の一歩。それは、自画自賛でも、ライバルの批判でもない。自分たちの置かれた状況を正確に見つめ、把握するという事。

 

するとどうだろう、既得権益という椅子に座る自分たちの姿が見えてくるのではないか。しかし残念ながら、その椅子はもはや実態すらない、傾いた椅子なのである。